他者本位

 日曜日の過ごし方が分からない。私は、基本、平日と土曜日の午後2時から午後10時まで働く。仕事の後、軽食を済まして、洗濯や掃除や翌日の段取りをして、毎日24時から7時まで眠る。で、朝起きてから午後2時まで、何もやることがないのである。

 私はとにかく暇である。私の暇人生は、大学の頃から始まった。それまでは、いつどこで何をどのようにやるべきかというのは、学校と親が決めてくれていた。浪人生活に体調を崩したのは、自分で計画を立てなければならなかったからだろう。実際、私の浪人生活は大して褒められるものではなかった。で、大学に入り、大学院に入り、社会に入ろうとして「適応障害」と診断されたのだ。これは私にとって大きな意味を持つ。つまり、私は、社会に「適応」出来なかった。それはつまり、私の堕落の象徴のようなものだったから。

 今、私は、午後から働く仕事をしている。殆ど欠勤は無い。売り上げもそこまで悪くはない。時期によって上司の助けを得なければならないこともあるが、概ね良好である。

 私は、教員に適応できなかったことを、己の堕落した生活の所以と思い、またそれまで育ててくれた親や恩師に申し訳ないと思った。今の自分の生活は、今のところ、適応できている。ただ、毎日の午前中と、休日の過ごし方が、あまり良くないと感じている。

 私は真面目過ぎるだろうか。真面目に、というのは、よく言い過ぎだ。まだ、褒められようとしているのだろうか。私にとって、「真面目さ」とは、親や教師から褒められんがためにする、必死のサーヴィス精神のことである。太宰的なものである。

 堕落したくないという思いが強い。私は堕落しているのだろうか。私は、誰のために生きているのだろうか。

 今の私の生活は、私の塾の生徒、生徒の保護者、塾の講師、上司、延いては社長に向けられている。私は、生徒や保護者や講師や上司や社長に褒めてもらいたいがために生活しているのだろう。彼らの前で真面目に振舞うのはその為である。

 では、彼らが私の眼前から消え去った後、一人残された時、私は、持て余した時間をどのように扱えばいいのだろうか。読書?音楽?映画?趣味を生かす?バイクの免許取得だろうか?料理に凝る?翻訳家的な生活?彼女を見つける?カメラ?アメリカ文学研究?だが、それで、一体誰が喜ぶというのか?

 そう。私は思い至る。果たして私は自分自身を喜ばせようとして何かをやってそれがうまくいった試しがない。たとえ眼の前に他人が居なくても、他人のために何かをやっていると実感できていれば、それが功を奏すと思われる。これは坂口恭平さんの『躁鬱大学』に書いてあったことだ。

 私は、夏目漱石の「自己本位」の真逆の「他者本位」という言葉を知って、安心立命を覚えた。そうか、自分の思考や行為は全て他者に向けられている、或いはそうしないと気が済まない性格なのだと諦めがついたからだ。本を読むのも、自分だけの愉しみにしないで、その批評分や感想文を公開して「素晴らしい」と言ってくれたら、幾らでも読み、幾らでも書くのだ。映画もそう。料理もそう。写真もそう。

 他者から褒められると思えばこそだ。そうでなければ一切は空しい。