修士論文が書けなかった。修士論文に3度挑戦し、3度失敗した。だが、結局、論文は受理され、修士号を授与された。私は、それでも、自分は修士論文が書けなかったと自覚している。だが、この話は本来、墓場まで持って行かないといけない話だろう。
と、同時に思う。自分の執着心の凄まじさについてである。それは愚かさと言い換えるべき執着心である。普通、常識的に考えて、私は、修士論文が書けなかった最初の失敗の時点で、修士号を諦めるべきだった。嘆願書を書いてまで高校教師の仕事を守ろとして、結果それが成功したのだから、修士号まで貰おうとしたこと自体が欲張りで、強情で、見栄っ張りで、大変見苦しい、ダサい、野暮ったい、田舎臭い、馬鹿馬鹿しいことであると、私は自覚できなかった。今思えば、本当に野暮ったい。身の程を知らない、分際をわきまえない、甘ったれの、空想好きの、口ばっかりの‥‥‥もうこれ以上どう形容すればいいか分からない。とにかく、私は、虚栄心の塊だったのだろう。今、それを笑って突き放すようなことはできない。不誠実な、不真面目な、生活力の無い、どうしようもない、駄目な人間だったということしか言えない。私は、あの頃、本当に自殺するべきだった。教職の仕事を嘆願してまで貰った挙句、二回も休職して、一年足らずで辞職して、修士論文も書けず、一体、私の教育は全くの失敗だったと断定せざるを得ない。
そうだ。私は、父がそう評したそうだが、「教育を間違った」一つの失敗例である。私は駄作であるのだろう。教育の失敗について、私は考えなくてはならない。どこでどう間違ったのか。いつの時点で間違って、どこが急所だったのだろうか。まず、修士課程に進んだのが間違った。否、浪人時代が間違った。否、医学部を受験したことが間違った。否、理系に進学したことが間違った。否、陸上部を辞めたことが間違った。否、親に反抗しなかったことが間違った。否、私立中高一貫校に入学したことが間違った。否、否、否。そうではない。私は、やはり、大学時代からおかしくなった。浪人時代から徐々にその片鱗は見せていただろうが、やはり何と言っても独り暮らしを始めてからおかしくなった。
或いは、学校教育を間違えたのではなく、家庭教育を間違えたのだろうか。父のいう「教育の間違い」というのは、躾の部分だろうか。私は、では、仮に間違った躾を与えられたからこそ、こんなことになったのだろうか。
私には何が足りなかったのだろうか。決意。意志。練習。準備。覚悟。諦め。意気込み。習慣形成の能力。或いは、単純に、教師の資質、適性、能力。
では、私は、キャリア教育を失敗したという言い方をすればいいだろうか。家庭教育も、学校教育も、学歴中心主義であったことは間違いない。だが、そこにキャリアという観点が抜け落ちていた。両親は、自分が教師になることを諸手を挙げて賛成してくれたのは、地方公務員になることに大変な羨望を覚えていたからに違いない。余程のことがなければ解雇されない。毎月給料が支払われる。出来高ではなく固定のボーナスが貰える。福利厚生がしっかりしている。退職金も、年金も、一般会社とは全然違う。社会的信用も高い。家や車を買う時のローンも組みやすい。一生安泰だ。そう思ったに違いないのである。
私は、一点、自分の誠実さを認めるとすれば、或いは、自画自賛したい部分が在るとすれば、自分の修士論文を、論文として価値が無いからという理由で、2度出さなかったということと、自ら、安全で快適で満足度の高い身分保障を軽蔑したということ、である。
私は、両親の、特に母親の、公務員に対する嫉妬と羨望の声を聴くたびに嫌悪感と軽蔑心を抱かないことは無かったのだ。この家畜が!と思った。お前らは家畜の群れだ!と。そうやっていつまでも緑の憩いで、草を食んでいるがよい!だから私は現実的に両親から縁を切られるくらいの事をしたのだと思う。公務員の仕事を放棄した。修士課程を放棄した。それは、反抗、以外の何物でもなかった。
私は、今、両親に、教師に、学校に、社会に対して全身で抵抗している子どもたちの世話をすることを生業にしている。反抗すればいいと思う。大したことない親なんだろう。奴隷のように働かされた親に育てられた子供はルサンチマンを遺産相続する。
精神的に自立することを自覚するためには経済的に自立しているという現実によって裏打ちされていなければならない。経済的に自立するとは、つまり、社長になるということである。会社経営者になるということである。或いは、作家になるということである。或いは、フリーターになるということである。経済的に自立するということは、しかしながら、無人島で暮らすことではない。この日本社会で経済的に自立したと見做されるためには、年収で400万円前後、月収で言えば25万円くらい手取りがあることを意味する。そのためには、現実的に、正社員として雇用されていることが普通の選択肢になる。非正規労働を掛け持ちすることは、現実的に不可能である。更に、それは、携帯電話の契約ができなかったり、家賃契約が結べなかったり、クレジットカード(信用カード、とはまさに)が持てなかったりと、要するに、人間扱いされないことを意味する。
私は、2018年1月1日から2021年3月11日までの3年と2カ月と10日間、主に塾講師のアルバイトに従事し、両親の家に住むフリーターだった。毎月の収入が10万円を超えることは稀だった。早朝にパチンコの清掃のバイトを掛け持ちしたこともあったが、それでようやく15万円くらいになった。恐らく、そこに土日に派遣の仕事も加えたら何とか手取りで20万円貰えるようになる計算だ。
朝5時半の起きる。自転車に乗って駅前のパチンコ屋に向かう。6時から8時過ぎまで清掃業務を行う。時給1100円の仕事だ。毎日2200円貰う。それを週6でやる。1週間で13200円。一ヶ月5万円から6万円になる。
夕方4時から10時まで、塾講師の授業を3コマから5コマする。1コマ1200円である。土曜日は13時半から最大7コマ程度連続する時もある。一ヶ月、大体80コマから100コマ前後、10万円から12万円振り込まれる。
日曜祝日、派遣仕事を貰う。日当8000円から1万円。セブン銀行に即日振り込まれる。事業所の引っ越しや荷下ろし、介護福祉施設のヘルパーの手伝いなど。一度やると体が壊れそうになるくらいへとへとになる。月に1度か2度、やれたらいいほうだろう。手取りで2万円である。
これらを総合して、やっと毎月手取りで18万円から20万円くらいである。全く割に合わない。この割に合わないことを3年間も続けていたのだ。精神に不調をきたさない方がおかしい。
私は、まだ修士論文にこだわっている。論文を執筆せねば、自分の人生が無駄だったと感じている。
私は、やらないでいい苦労をやった。味合わなくても良かった屈辱を味わった。経験が私を強くしたか?否。断じて否。屈辱は私の精神を曲げた。経済的不安は私を小さくした。その3年間の同居生活は、私と私の父と私の母に、恐らく平等に、痛みと苦しみと虚しさと怒りと憎しみとを、それぞれに与えた。それは、家庭の崩壊、家族内の分断、意志疎通の不可能、不健康、殺意を生じさせただけだった。
私は、もう、向こう3年間、両親の顔を見たくないと思っている。声も聞きたくない。写真も一枚も持っていない。ここに来てほしくもない。
論文を再開したいと思ったが、それももういいかと思う。健康に悪いからだ。どうせ碌なものが書けるとも思わない。とにかく、心身の健康に悪い事はしない。だから弟夫婦とも会わない。子供が生まれようが知らない。勝手にすればいい。
結婚式に家族を呼ばないかもしれない。俺は怒っている。家族に。この家族に。縁を断ちたい。俺に連絡をするな。俺にもう構うな。知らない。どうなろうが知らない。
とにかく、向こう3年間会わないくらいでちょうどいいと思う。ちょうどいい。それくらいのことだった。2018年から2021年にあったことを、すぐに水に流すほど、私はお人好しではない。
俺は本当に論文を書きたいのだろうか。否。俺は雪辱を晴らしたいだけである。過去を清算したいだけである。修士論文を授与されるに足る論文が書けたらそれでいい。賭けた所で他人に見せる必要もない。無論、担当教授に見せる必要もない。義理はあるだろうと思うが。これは、自分との格闘である。自己との格闘である。
毎日闘いである。そうだ。論文執筆の日々に戻るとは、格闘する日々が戻るということだ。
まずは、実家に戻って、必要な資料を持ってくることからだ。多分、ヒップホップの論文は書けそうもない。学士論文で扱ったアメリカ黒人文学論の方が、論文作成の観点だけで言えば資料も一通り揃っている。まずは、それを持ってくることだ。