義務感で生きる/責任感で働く

   ドス黒い。グデングデンである。とにかくしんどい。デヘデヘ。ぐちゃぐちゃ。ボロボロ。グダグダ。倒れそう。我慢できない。これ以上耐えられない。これ以上継続できない。これ以上生きられない。これ以上生きていけない。これ以上生きたくない。

    救いが無い。さっき高い所に登った。下を見下ろしたが、あまり怖くなかった。だが、できなかった。やる気もなかった。自分でもよく分からなかった。死にたいと言っているが、いざ、死ぬ段になると躊躇してしまう。

    死ねない。死ねないことが絶望である。こんな状態では到底生きていくことができない。それは明白である。生きている心地がしない。

    生きたいと思わないことだ。喜びを求めないことだ。ただ、黙々と、言われたことをやる。

    生きることは義務である。ただそれだけである。義務感で生きている。義務感とは何か。それは、責任と責任感の違いと同じだろうか。

   義務感で生きる。責任感で働く。その他のことを求めない。

よく生きる

 死にたいと思う。昔のことを思い出す。なんでこんな風になってしまったのか。過去を振り返っても、今を生きるより仕方ない。今起きている問題に粛々と対応し、処理していくより仕方ない。結局死に切れないのだ。死ぬことを諦めざるを得ない。死ぬことを諦めるとは変な言葉だ。死ぬことくらい確実なこともないのに。つまり、自殺を諦めるということか。自殺、自害。西部邁は自らの死を「自裁」と呼んだ。私は、彼の様な死に方は、恐らくというかほとんど確実にできない。

 「なぜ?」と自らに問い続けると、たちまちに意味の輪郭が失われる。常識や道徳、良心、規範と呼ばれるもののは、内省されることがなかったことが判明する。或いは、ひとたび内省を始めてしまえば、生活ができなくなることが直感される。なぜ生きているのか、なぜ働くのか、なぜ納税するのか、なぜ食べるのか、なぜ眠るのか、なぜ立っているのか、なぜ座っているのか、なぜ考えるのか、なぜ好きでもないことを毎日やっているのか、なぜ毎日死にたいと思うのか。習慣には理由は無い。習慣は習慣であるがゆえに習慣であり、それ以上でもそれ以下でもない。習慣的行為、或いは日常的な思惟は、それが何度も何度も繰り返されたこと、反復され続けていることが本質であり、本体である。そう考えることはできないだろうか。

 私はなぜ毎日死にたいと思うのか。なぜ毎日、体に悪いと知りつつ体に悪いことばかりするのか。それが習慣になっているからである。文字通り、生活習慣そのものが病なのである。私は、生活習慣の逐一をすべて点検して、あらゆる「悪い」振る舞いや言動、内面生活の動きや思索も含めて、刷新していく必要がある。懐疑の目的はよく生きるためである。

 先延ばし癖を止める。嘘を吐くことを止める。約束を破ることを止める。生命を粗末に扱うことを止める。物を乱暴に扱うことを止める。悪いことを隠すことを止める。だらしない恰好をするのを止める。悪いと知りつつ直さないままにしておくことを止める。

 

祈るより他無し

    多分、またすぐに死にたくなると思う。仕事に手がつかなくなるだろう。焦りというよりも憔悴に近い感覚になるだろう。その時どうするのか。

    タバコを吸う。コーヒーを飲む。掃除、片付けをする。家ならば洗濯をする。床掃除をする。本棚の整理をする。服をたたむ。窓を掃除する。ゴミ出しをする。買い物に行く。献立を考える。好きな料理を作る。ご飯を炊く。味噌汁を作る。お風呂に入る。音楽を流す。髪の毛を整える。髭を剃る。歯を磨く。自転車を買い替える。外を歩く。

    仕事中に死にたくなったらどうするか。まず仕事から離れる。仕事を休む。小休止する。だが、休めないことが問題である。落ち着かないことが問題である。何をしなければならないのか、強迫神経症的に考えねばならないことが一番嫌である。できることをする。手を動かす。頭を働かせる。体を使う。動けと念じる。祈る。自分の体が正常に動きますようにと。

    人目のつかない所に行って祈ること。それが一番落ち着く。

藤村を読みたい

 希死念慮に襲われる日々である。それは自殺願望というような物騒なものではない。それをまず言っておきたい。希死念慮とは、どこまでいっても感傷であり、主観であって、気分である。それは空気、雰囲気であって、思考にまとわりつくような粘着性の物質である。自殺願望とは理性であるように思う。それは絶望であり、現実であり、動かし難い事実性によって裏付けられている。私に日夜到来するそれは、ほとんど空想的な絶望「感」、現実「感」であって、オーラの様なものなのだ。その実体の無さこそが問題の本質のように思われて仕方ない。

 希死念慮とは、ほとんど虚無感と同じである。実体の無いことそのことが事実性を持ってしまっている。無意味の意味のようなものだろうが、その蜃気楼のような観念連合が、現実の私の生活に与える影響の大きさを思えば、その存在について考えざるを得ない。

 主観だけ述べる。「死にたい」の持つ意味はその根本には寂しさがある。満たされないことの渇望がある。それが破れかぶれで、自暴自棄な行動に至らせることもあれば、愛他主義的な振る舞いに変容させることもある。「死にたい」という言葉自体が、他者の存在(と承認)を前提としている。その言葉の響きには、不本意かもしれないが、自殺願望者の悪意がある。困らせようとしているのだ。責任放棄あるいは責任譲渡のニュアンスがある。意志の備わっているべき主体性が感じられず、不道徳に、不誠実に聞こえる。その無責任な発言は幼稚に解釈され、不用意な怒りを買う要因にもなるだろう。だから、本当に信頼できる人にしか「死にたい」とは言えない。否、本当に信頼している人だけには「死にたい」とは言えない。そのような暗い本音を打ち明けさせてくれる人は精神科の医者か宗教家、ある種の哲学者、批評家、芸術家、小説家、思想家である。「死にたい」というのは、「セックスしたい」というのと同じくらい開けっ広げな言語表現である。つまり、「死にたい」とは自然主義文学的な傾向である。

 

 分かった。島崎藤村の『破戒』から読んでみようか。「死にたい」とは、信仰の本源的な感情だろうという直感がある。

Menatal illness is like wedlock

  I want to die. I don't know why. I don't understand why I think or feel so, but I am always made to think so. What makes me want to die? That's what I want to know.

 I am diagnosed with bipolar disorder. My doctor told me so. When he told me so, I felt relieved, strangely to say. That felt like my conditions set in the place to be. The strange settlement was brought about, partly because the way he spoke to me was delivered very directly and decisively. In addition to giving me a diagnose, he also gave me an order. He called it "Structuralization of Lifestyle". That consists of three principles: wake up by 9 AM, take a walk under the sun for 30 minutes at least, and if you want to take a nap, it must be as short as half an hour and must be finished by 3 PM at the latest. Simple as that. 

 I, however, could not obey his orders. In fact, those three principles were really hard for me to do. First of all, I can not wake up early in the morning because I cannnot go to sleep early in the evening. I usually go to bed as late as 4 or 5 AM and wake up as late as 2 or 3 PM. I told my doctor about the conditions, and he gave me sleeping pills. Those pills are supposed to be taken an hour before going to bed. Also, he gave me additional pills for biopolar disorder, so I now take three different pills every night. What's worse is that I always forget to take those pills before going to bed. The worst thing is that ,my comittiment to treatment was too bad and that makes me hesitate to go to see the doctor and tell him the truth, the true conditions, the true feelings. 

 

    What I have to do is to keep my word with the doctor. He is very reliable, undoubtedly. I want to make a good relationship with him. I want to keep it well just because my disease is chronic, my conditions have advanced, and it will last for a very long time, maybe a lifetime. It's like a wedlock; wherever you go, I will go; for better or for worse

信仰の道

———死にたい休みたい何もしたくない眠りたくもない歩きたくもない食べたくもない生きるのが怖い休めない仕事のことを考えると恐ろしい仕事の時間が来るのが怖いまるで死刑囚のような暮らし時間が経つのが怖い。

 

    私は死ぬが怖いのではなく、生きるのが恐ろしいのである。刻一刻と時間が打ち過ぎてゆく中で、私は私を見失っている。次の仕事まで後5時間、4時間、3時間と時間が異常に速く経過するのを見ながら、ジリジリと体が切り刻まれるような感覚になる。私は時間を止めることができたらと何度思ったか知らない。永遠の無為の時間を過ごせたらと思ったか知らない。仕事が怖いのではなく、仕事に行くのが怖いのだ、仕事の内容が怖いのではなく、仕事に追われ、神経を擦り減らし、精神が疲弊することがもう嫌なのだ。

 

    もう嫌だ。もうこんな生殺し状態から抜け出したい。もっと積極的に生きたい。こんな囚人の様な生き方を金輪際切り捨てたい。そのためならキリスト教徒になっても構わない。

 

    自己嫌悪を踏み抜いて、信仰の道を歩みたい。その方が余程健全で、健康的だと思う。

他人の時間に合わせる

 向き合えることに向き合い、向き合えないことには祈りを捧げる。私は余りにも沢山のことを考えてしまっているように思えてならない。思考のテーマが多すぎてどこから手を付けたらよいのか分からなくなっている。頭を整理する必要がある。

 だが、それと同時に思うことは、頭を整理すること以上に、整理した結果どうにもならないことがあることを認めねばならなくなる、その時どうするのかということだ。私は、今、何を求め居ているのかといえば、安心である。そうしておけば大丈夫だという、見通し、先見性、ヴィジョンである。或いは、何をしてはいけないのかを感受するセンサーであり、感覚であり、道徳的な感情である。

 落ち着かない。自信が無い。不安である。ソワソワする。手が付かない。苛立ちを覚える。自分をコントロールできないことに焦りと怒りを覚える。気分が悪い。体が重い。それは事実として体重が増え過ぎたせいであるが、それ以上に気が重い。私は、どうしたって精神的な事について考えてしまうのだ。

 私にとっては自明であるのだが、人間とは精神である。肉体と脳の相互作用とは考えにくい。私は機械論的な人間観が嫌いなのだ。人間とは精神であり、魂であり、主体性であり、内面が大事なのであって、誠実さや実直さや生真面目さこそ尊ぶべき人間性であることを自覚せずには居られない。或いは、現実と直接に向き合い、葛藤し、矛盾を乗り越えようとする逞しさ、勇敢さこそ誉められるべき、認められるべき特質である。広く言って人文学的知性が定義しようとする人間観こそ、私の人間観、人生観、社会観を構成するはずだし、そうであるべきだと思う。

 だが、今はとにかく落ち着かない。煙草を吸っても、珈琲を飲んでも、服を着替えても、何をしても落ち着かない。だが、時間は刻々と迫っている。何人も時間を止めることはできない。私は、日夜、時間と闘っている。秒針が一秒一秒運動する様子を見つめながら、今できることは何か、逃げてはならない、負けてはならないと言い聞かせている。私は、毎日、へとへとに疲れ切っている。余裕が無い。精神的な余裕つまり時間的な余裕が無い。となると、精神とは時間であるのか。時間の流れ方に、精神の何かしらの側面が表現されているというのは間違っていないだろうと思われる。

 苛立っているから時間が速く、時に非情と感じられるほどに速く感じられるのだろう。落ち着いているときは、時間がゆっくりと進む。だが、本来は、時間の速度は一定である。一時間の長さが過去も現在も未来も同じように。だが、問題は、その時間の流れの速度を感受する精神の在り様の方である。

 

 一つのアイディア。時の流れに身を任せてみる。時の流れに反抗しない。世間の流れに身を沿わせる。自分の思う時間の流れ方を敢えてしない。他人の時間の流れに合わせるということ。

 

 これでやってみよう。